「できる」と「わかる」は大きくちがう

「人は生まれながらにわかろうとしている」

「わかり方の探究」の著者の佐伯胖さんは、冒頭の一文目にこう記した。「できる」と「わかる」はどう違うのだろうか。

知識として獲得してほしい基礎学力がある。それを詰め込むことが学校教育の中で蔓延している状況だ。自分自身も、100マス計算、毎日漢字小テストの中で、子ども達に詰め込みをしている。そこから生じるデメリットは、

①必要性を感じないこと

②学習が苦となること

本来、人が学ぶ、分かろうとする営みが心地の良いものだとするならば、その気持ちを遮っているのは教員ということになる。大人が先回りして、子どもの学習意欲を割いている。ただ、何でも楽しい、自由な探究的な学習、経験主義による単元でも、「ぞくっとする学び」には到達しないように感じる。

「ぞくっと」をもう少し言語化していくと、知識と知識が体系化し、つながる瞬間。理解し、何かが開けるような感覚とでもいうのか。その感覚が、いかに授業の中で作られるのかが、授業者の腕の見せ所だと思う。

「ぞくっと」を作るために、必要な条件。それは

⓪子どもにこの授業で何を「できる」ようにしたいのか。「わかる」ようにしたいのか。明確にする。何だったら、ルーブリックを作成して、子どもに示す。

①導入で知識を遊ぶように獲得する。自然と身についている。これは理想。

②知識が活用できているか、また正しく「できて」いるか、チェックポイントを設けて、確認する。これは、子ども同士でもできるとなおいい。

③正しい知識と知識が合わさり、活用し、見方考え方の幅が広がり、思考判断表現の領域が広がる。伏線がつながる。そこで、アウトプットの機会がある時、「ぞくっと」体験が自然と訪れる。

この学びの感動を、授業でデザインすることが、教師の本分だろう。

脱出ゲームと比較するならば…

⓪このゲームでは、何がゴールなのか。何をすればいいのか。明確にする。その世界観、ルールをプレイヤーに示す。

①導入では、比較的簡単な単発の問いを解いていく。協力してもいい。一人でやってもいい。でも何だか遊びのように楽しい。この脱出の問いを解くときの楽しさは、どうして生まれるんだろうか。教室ではなぜ生まれないのか…身体感覚? 設定? なりきる世界観? これが「自分事」感覚から生まれる主体性なのか。

②解いた答えと答えが繋がり、次の問いを生み出す。答え、道具が新たに生まれ、物語の世界観に絡んでいく。チェックポイントとして、正しくなければ先に進めない。誤答のときには、もやもやする。焦る。仲間の協力要請を促したくなる。確認して欲しくなる。「困りごと」感覚による、対話的な学びへ発展する。

③深い、難度の高い問いが、ダイナミックに動くとき、物語・世界観が大きく動く。最終ゴールに向けて、クライマックスの場面が展開する。よくあるのが、今まで活用していた知識・道具・物語の背景がキーポイントになることが多い。つながったとき、「ぞくっと」体験が訪れる。

この没頭感、学びに浸る感覚が病みつきになりさえすれば、子どもは勝手に動き出す。さあ、どう授業をデザインする?

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