その子が本当に学びたいこと

社会科ワークショップに参加した。作家、読書家、科学者に続くワークショップ形式の授業の社会科版。早朝6時からでも、熱量高く学ぶことが出来た。新しい気付きも得た。

まず、読書家にしろ、作家にしろ「その子が本当に学びたいことをやれる、尊重できシステムである」ということが共通であった。だが、何でもやっていいというわけではない。「公園を作る」という言葉を、登壇していた富田さんが言っていた。

例えば、ごみ問題に関する滑り台を作っていいよ、といった風に公園の中ならば好きに遊んでいい設計にする。公園の外に出て、好きなことやりたいとならないように、教師が公園の入り口に立たせることは必要だと言っていた。学習者中心ではあるが、大人も一緒に学びのデザインを設計している感じ。

子どもが「やりたい、学びたい」が教科書の外、流れにないことを言う。そこで、大人が「ダメ、後で」と遮るのはおかしくないだろうか。学びの主体は子どもなのに。「学校だから、集団だから」と口を酸っぱくして言うが、それで子どもの学びへの学習意欲を損なう方が大きな問題である、と富田さんは言っていた。能力や知識は、大人になってからいくらでも育つ。けど、学びに対しての関心や前向きな姿勢は、損なわれると根深いものになる。

武田信子さんの「やりすぎ教育」の著書が話題になった。「マルトリートメント」という言葉が話題になった。いわゆる「教育虐待」学校の中で、先生が子どもを縛り付けて、「今日はこの勉強しかしてはいけません」ということは、マルトリートメントにならないのだろうか?その意識を持つこで、センスが分かれる気がする。

「宿題をしなさい」、「教科書を開きなさい」にも、広い意味での教育虐待が潜んでいる気がする。我々大人は、一人ひとりの個性を伸ばすために、認めるために存在している。そこで、「自分の学びはこうありたい、こうしたい」が出てきたときに、「こちらに伸びていいよ」と、励ましてやらなければ、学習意欲はもちろんのこと、「表現する力」は削られていく。自分を出せなくなってくる。

探究する力や、知識は副次的なもので、前述に書いた2点のような力こそ、授業や学びで高めたいもの。それが、小学校時代に体験すべきことだと、生身で実感している。

最後に、評価の話だ。富田さんは、「評価はワクワクするものなはず。先生と子どもでの作戦会議。」と言っていた。「ここはこうだったね。」とやっていることを尊重し、次につなげたいと思えることが評価だ。「できる、できない」の浅い評価はもう捨てたい。

全部が、ワークショップで行うことは難しいかもしれない。けど、一部分だけでもこのシステムに設計し直すことで、子どもの個性が正当に評価される物へと転換していくタイミングが必ずやってくると確信している。

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