人は、自分の価値を求めている

夏休みの2週間前の土日。少し気持ちが落ち着かない。どきどきしているような、ふわふわしているような。この実態のない焦燥感に、焦る気持ちがある。

どこからこの気持ちが来るのかといえば・・・4月に感じた、「うまくいっている感」が薄れてきているせいかもしれない。

学級の面々とは、だいぶ関係性も打ち解けた。また、横のつながりにも幅が出ているように思う。だが、少しだれたり、関係性がくだけているような部分も見受けられる。以前の低学年ならば、そのわだかまりのような気持ちを吐き出すように、ピシャっと諭していたかもしれない。

「私は、君たちの友達ではない。」とか、「それは、違う。直そう」とコントロールして解決していた。だが、どうしても高学年となると、そのピシャっという手が使えなくなるわけだ。だから、相手の出方に悶々とする場面が出る。例えば、プリント一枚渡すのにもお礼があるかどうか。物事に対しての、不満が出た時のざわつき。教室環境が乱れている時の、声かけ。物の扱い。一つとっても、低学年のように扱ってはいけないのではないか、と躊躇してしまう。

だが、それは5月の時点で学んだはずだ。指導すべきだと、自分が納得したところには、信頼と尊重を忘れず声を上げる。それが「高学年だから、言わなくても」とはならない。それだと手遅れになることが、5月の失敗だった。伝え方も、低学年だから厳しく、高学年だからゆるく、なんてことはない。変えてはいけない。一人の人として関わっていく覚悟を持とう。

ある女の子が、私の授業の教科の下に、たくさんの「正」の字を書いていた。それを見てざわつく。「あの正は、一体何をカウントしているのだろうか」

ついつい、自分のモヤモヤ感を解消したいがために、個別で話を聞こうとする。

「あれってどういう意味だったの?」

その子は語る。

「なんか言わなくてもいいところで、先生が口を出すから、気になる」と。

自分の指導のスタイルが否定された気がして、とても焦ったし、その子の言い分を覆してやろうという気持ちになった。ようは、受け入れたくないのだ。

「自分は、これだけ君たちのことを考えて、教育に没頭して努力しているのに、なんでそんなことを言われなくてはいけないんだ」と。

そんな気持ちがメキメキと溢れてくる。でも、とりあえず、その子の言い分を先に聞く。「他にはある?」と吐き出させることに注力する。そして、締めくくるように「教えてくれてありがとう。言ってくれないと、直せないから助かるよ。それも、うざいとかいう言い方ではなく、そうやって正直に穏やかに教えてくれてありがとう。」と伝えた。

何とか大人の威厳みたいなものを保とうと、そんな綺麗事を無理に捻り出し「でもね!」と続けた。

「それは、私の癖だから急には変えられないところがあって。それと、教室にいるのは〇〇さんだけではないから、そこは理解してね」

情けない。そうやって、自分の自己保全に走る姿は、何とも情けない。その子が私の姿を見て、そう感じた。それを「正の字」で何とか発散しようとしたのだ。まず、そこから学ぶべきことがあるはずだ。自分が変わる覚悟を。小学生だからといって、変えようとするのではなく、まずは大人が変わる姿勢を見せる。そうでないと「この人の言う事なら・・・」とはならない。背中を見せるとは、そういう事なはずだ。その子の感受性や、その思いの背景にも複雑な積み重ねがあるはずだ。

自分を受け入れられない、自尊感情の低さ。自尊感情が高ければ、気にならないかもしれない。けど、私の作る場で、そのような思いを抱かせたことには変わらない。みんながその場に、器に乗っていない。それは、私の望むべき場ではない。

いくつかの要因があるだろうが、まずできることはその子に関心を寄せる。そして、耳を傾ける。

それから、学習面の自己有用感。担任とのつながり。そうやって、信頼ベースの関係づくりへと発展していくことを、大人が確信していること。体現していくこと。それが、最大の教育効果なはずだ。

ゆっくりでいい。思いを寄せて、信頼を積み重ねていこう。

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