休校になってからじゃ、飲み込まれる

学校が休校となって、大きな決断に迫られる。

オンライン授業はするのか。しないのか。親によっては、してほしいと思う人がいる。逆に、仕事の都合がつかずにオンラインはやめてほしいという声も届く。我々は、全ては救えない。けど、先頭に立って、「こっちですよー」と先導する責任はある。

それが保護者の意図にそぐわない形であっても、「この道で正解を導き出すから」と強気に引っ張る時が必ずある。それが、今回の休校のタイミングだったと思う。

休校にして、課題を送って、あとはお願いします。これが最も簡単。だが、時代はそれを許してくれない。オンラインで、学校に来なくても、教師と子どもが繋がれる時代となった。そしてその良さが世間に知れ渡りはじめている。つまり、3年前の「インフルエンザ蔓延で、休校になりました。各自、家庭で課題を進めてください」では乗り切れない時代になったのだ。

しかしそこで確認したいのが、右にならえで全校がオンラインに踏み切る必要があるのか、ということ。実際にやってみて、子どもたちの限度も知れた。ずっと画面越しに、一方通行の授業を行うことのしんどさ。これは、教室以上の「刺激の少なさ、体験の薄さ」を感じた。これなら、担任でなくてもいい。誰でもできる。塾でやってくれ、だ。

その限界を知っているから、教員間でも悩む。オンラインに踏み切ると、子どもたちの表情が曇っていく。だが、生き生きとする子もいるのは確かだ。つまりは、やれることはやっていけばいい。

「やれる最大限の理想は掲げつつ、妥協して行う」が教員の在りたい姿かなと思う。全てが理想では行えない。ただ、理想は忘れずに動くことが出来れば、決して悪い方向にはいかない気がする。この状況ならば、「全てオンライン授業に踏み切るのは難しい。低学年の実態に合わない。デバイスが揃っていない。家庭のご都合もある。ただ、学びを止めるわけにはいかない。だから、こちらが求めるものは、多量のコミュニケーションをとりつつ、励ましながら、子どもが打ち出す学びに伴走する」形をとりたい。それが理想だ。

「判断というのは、個人が判断しているのではなく、”状況が個人に判断させている”ので、正しい判断をする状況を作っておくことが大切」と、キングコングの西野氏のメッセージがとても刺さる。

保護者の視点で見れば、他校や以前オンラインで動いたときのことを比べて、判断している。「何でオンラインじゃないんだ。」それは、休校という状況になったから、そういう意見が生まれる。何より、学校が今までそのような状況を作っていた、と言える。だから文句が出るようになっている。

また、教員も日常の学校生活で、オンラインに見越して準備をしてこなかった。だから、その休校の状況になったときに、できないことを切り捨てる。理想を見失って、妥協どころか方向性が見えてない打ち手を行う。

間違いなく、理想の教育が出来ないことは、今までその状況に到れる過程を作ってこなかったからだ。例えば、日常的にiPadに触れておく。家庭のデバイス環境を整えておく。そうした「絶対に死なない対策」を打ち出してないから、急な波が来た時に慌てて準備する。そして飲み込まれる。

コロナでどんな波が来ても、これがあるから大丈夫、といえる環境は、やはりオンライン。まずは繋がれる準備。そのうえで、本校らしさを模索していく必要がある。合わないから切り捨てる、では時代についていけない。それが最もやってはいけない悪手だと、学校全体が気が付かなくてはいけない。

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