体験には、どんな価値があるのか

結果には意味がない。いもにいこと、井本陽久は「やった行為にもほとんど意味がない」という。努力によって左右されるもの。また、環境によって左右される目に見える結果。これらに、価値はないという。ある種、似たような感覚を、自然学校の森の中で感じた。

黒姫の森に入ると、大好きなアーティストのライブに来ているかのような感覚になった。それは、「整う」感覚。サウナにハマったことはないが、体と心がゆるまっていくような感覚。自然と、心地よさを感じる状態。それは、きっと肌や耳、匂いで感じる懐かしさから帰来してくる遺伝子レベルの共感覚なのかもしれない。

だが、歩いていくと疲れてくる。そこには、「なんで何時間もかけて山に登っているんだろう」だ。その体験を、子どもたちにさせてどんな意図があるのか。

そこを掘り下げる前に、ICTと体験の対比について考えたい。ICTで得られるものは、一律な成果だ。どんな子でも、ある程度は成果物が作れる。表現できる。ただ、そこには味がない。個性やその人自身の思いが感じられにくい。「手触りのこだわりや、愛着が湧きづらい」のかもしれない。

だが、手をかけることで得られるものは失敗もあれば、味も出てくる。そうやって苦心しながら作ったものには思いもかけられてくる。じゃあ、ICTと手をかける体験。どちらが小学校の発達段階で必要になってくるんだろうか。

絶対に、どちらも選べた方がいい。それは間違いない。ここで議論させられている、どちらがいいのか、というのは比べている。そもそも、比べるものもないのかもしれない。のりとハサミ。道具が違うように、どちらも適切に使えて、自分にあった使い方ができればいい。

体験の話に戻そう。手をかけた方が、良い体験は得られがち。効率は悪いかもしれないが、そこには人の思いや記憶に残りやすい。だが、ICTも使えた方がいい。そうして、表現させたものには意味があるんだろうか。

井本先生は、「意味がない」という。努力によって、成果が変わる。その成果物には意味がない。どういうことなのか。子どもは、作っては壊す。その繰り返しだ。学習のように社会の中で、新しい何かを受信し、体験する。感じ取る。思考する。その瞬間に、子どもたちは輝き出す。何かを成すためにやるわけではない。やりたいからやる。考えたいから考える。感じ取ったから話す、伝えるわけだ。

そこで出てくる、人間の本能とも言える行動。その一瞬の繰り返しに、真理がある気がする。井本先生の言葉ならば、「プルっとさせる。没頭させる。夢中にさせる」

慶応の井庭先生なら「無我の境地」

ジェネレーターの市川力さんなら「ゆるめる。ディスカバーする。」

ファシリテーターの青木マーキーさんなら「I have already arrived(私は、もうたどり着いている)」

岩瀬直樹さんなら「評価を決めつけると、陳腐になる」

結果には意味がない。だが、その目に見えない瞬間は何にも変え難い、本人だけの価値となる。目に見えない体験には、そんな重みがある。だが、周りからは看取れない。どうやって、その体験を、価値を自分ごとに、周りに広めていくのか。それが、教師の手にも委ねられている。

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