先生ではなく、人であれ

 物づくりは、お金を意識すると途端につまらなくなる。採算を合わせようと、その物の値段を落とし、安価にする。はたまた、大量生産できるようにチープな作りにする。お金が絡むと、自分が作りたかったものが見えなくなってくる。

 「自分がこれを作りたい」という思いがスタートで、作り始める物は、人からはこう揶揄される。「それじゃ売れないよ。ただの自己満足だ」

 果たしてそうだろうか。

 有名な芸術家たちは、自分のテーマ性を持って、世に作品を生み出し続けた。それが売れ続けなくても、生活が出来なくなるほど貧窮する事態になってもだ。それは、自らの生き方に誇りを持っていたように感じる。「この作品で、伝えたいことがあるんだ。」強烈なメッセージ性を保ち、作品に魂を吹き込んでいく。もちろん技術面やテクニックに魅了される部分もあるが、作品を見て、「何かこれ良いなあ。魅かれるなあ。」と思うことが出来る作品は、そこに彼らのテーマ性が秘められていることが多い。それを、何かしらの直感で感じ取り、見入ったのだろう。

 それに対して、教育はどうだろうか。何が作品にあたるのか。授業自体か。それとも教えられる者の成績か。

 教えを見て学ぶとき、「背中が物語っている」という言い方がされる。その人の生き方や姿勢が、背中から醸し出されているという感じだろうか。

 子どもたちは、大人のことを本当によく見ている。「あ、今日は元気ないな。何だかイライラしているな。」そのような本人も気が付かないような内面の機微でさえ、敏感に感じ取る。だから、子ども達の周りにいる大人の影響は大きい。

 子どもは、大人を見て、感じて、学ぶ。近くの大人の思想を真似る。それが、行動に表れる。それならば、本当に伝えたいことを、教員はどのように手渡していくんだろうか。

 芸術家は、絵で伝えていく。教員は、人としての在り方で伝えていく。背中で語る。これが子ども達にとっても自然な形がする。医者は、治すこと、薬を処方することを仕事の生業にしているが、教師は薬も道具もない。身一つで、人と関わっていかなければならない。だからこそ、日常的な在り方の見直しが必要になってくる。子どもたちに厳しいことばかり強いて、自分は甘い姿を見せていたら、その思想はあべこべだ。誰もついてこない。「人の嫌がることをしてはいけない」と学校で言うが、教師が子どもにとって「嫌がること」をしていたら、子どもはどう思うか。心は離れていくだろう。

 先生らしくあろうと、つい人と人としての関わり方から外れてしまいがちになる。もっと丁寧に。その人の言い分が聞けるように。尊重できるように。意識しないと、教師という立場を利用して、暴力的なまでのコントロールや人権を無視した関りが生まれてしまう。

 出来ないことを、無理に強いることは、教育なのか。罰で、コントロールしようとすることは、学びになるのか。本人の意思に関係なく、全体に合わせなければいけないのは、何故なのか。学校や大人の都合ではないのか。

 一対一の関わりから、人としてシンプルに「かっこいい大人」を目指す。それが、何よりも教育効果が最大化されるはずだ、と信じている。何より、自分自身がそう在りたい。そうして人と、子どもたちとも関わっていきたい。そこがぶれないように、なくさないように。見失わないように。自分を疑って、問うていく必要があるんだろう。

 

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