子ども達をコントロールしたくないと言いつつ、どこかこちらの枠に当てはめようとしてしまうところがある。集団を動かすため、保護者の目があるから、来年度の先生の目があるから。そんなこちらの都合で、子どもたちを叱ったり、動かしたりする。大抵は、くだらない理由だったりする。
学級経営コミュニティで、「そのまま」か「ありのまま」かという議論がなされた。「ありのままが許される、居心地の良いクラスを作りたい」皆がそう思っている中で、成長を促していくのが学校という組織。一見矛盾しているように感じる。
一日中、床で寝ている子は、ありのままでいいのか。おそらく、これは「そのまま。」
この子に成長実感は、感じられていない。だからこそ、学校という環境に属している意義がない。こちらが与え続ける者でもないが、学んでいない。
子どもたちは、いつも変化していける者としてこちらの視座が高まっているか。「この子はしかたがない」と期待値を落とすことも時には大切だが、それは線で見たときの指導だ。この子に愛を持って関わっているか。「どうにかしてやろう」と思っている時には、大抵「愛」ではなく「欲」が働いている。
愛を持った指導を、もう少し言語化していくと、その子の「在りたい姿」を共に模索し促していくこと。本当は、学びたい、伸びていきたい。けど、そうできない壁や環境がある。だからこそ、大人や周りの子の環境によって、その子の発達段階の足場かけを用意する。その足場かけが、愛で構成されているのか。
その子を挫く言葉や学びになっていないか、それを秒速で確認していく必要が、振り返りの需要だと思う。愛を持った指導がいかに難しいか、それは何年経っても変わらないだろう。けど、そこの軸を失わない限り、クラスは回り続けると確信している。
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