「小学校の先生をしているんだから、子どもが好きなんだね」、「教えるのが好きなんでしょ」
教員の仕事をしていると、そう聞かれることも多い。でも、実際「子どもが好き!」、「教えることがしたい!」と強く思ったことがない。同い年の教員と比べてみても、どうにも自分が子ども好きのように感じない。むしろ、「可愛い」と思える低学年の子たちと関わる機会が多かったが、そうは思えなかった。
ただ、子どもを見ているのは好きだ。「次に何が展開するんだろう」と興味を持って見てしまう。目が引き付けれらえると言えばいいのか。失礼かもしれないが、「何かやらかしそう」な面白さがある。あとは、彼らの中に入り込んで対話することにも充実感を感じる。感情や物言いが、大人に比べれば分かりやすく、ストレート。何だか屈折していない純朴さが前面に出ている。純真無垢を体現するかのように、エネルギーが動き回っている。そんな存在が羨ましくもある。
西村佳哲さん著の「一緒に冒険をする」で、本城慎之介さんが次のように西村さんに語っていた。
「彼らは将来のことはあまり考えていない。『こんな大人になりたい』とか『いつかためになる』というのはなくて、本当に気持ちの赴くまま、それこそ快不快、もしくは安心できるかできないかという部分で動いているわけです。すごく生な感じがする。意図を持っていない、他人にどう見られるかということも気にしない、生な人間とのやり取りは面白い」
「そうだよ、足りない、できない、可愛らしい存在なのではなくて、何か人間として満たされていて、生々しい感覚があるんだよ!」そう膝を打ってしまった。きっと、私にはそこに惹かれる部分があるはずだ。
「子どもの強みって、今を全力投球できること」
そんなことを誰かが言っていた。確かに、「明日、学校があるからちょっと早めに帰るわ」、「宿題あるから、朝早く起きて仕上げないと」なんて言う、小学生は嫌だ。それは、社会人になってからいくらでも考えだす。考えざるを得ない。自分のペース配分や段取り、効率の良さを考えず、まずは感情の赴くままに動きだす。その後のスケジュールは関係ない。疲れ果てても、誰かの腕に抱かれて、眠りながら帰ればいい。きっと狸寝入りをしていても、家まで連れて帰ってくれるだろう。そうやって、誰しもが「子どもらしい子ども時代」を生きてきたはずだ。
大人になったら、そこに浸れない領域。そんなところに、軽々と踏み入れている「小さい人」たちが羨ましいんだろう。子どもが好きなわけじゃない。けど、「そういう人達に関わらせてもらいたい」気持ちは強い。それは、「好きだから」じゃなく、「かつてそこに足を踏み込んでいた体感を、もう一度味わいたいから」なのかもしれない。
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