聞くことが、心理的安全性を高める

「聞こえる」と「聴く」の違い。

「聞こえる」は、受動的。「聴く」は能動的だ。

 ケイト・マーフィー著の「LISTEN 知性豊かで創造力ある人になれる」では、そのように著者が語っている。本の中の記述で、このような一文がある。

「もっとも生産性のあるチームは、メンバーの発言量がだいたい同じくらいだということ」

いかに相手のことを汲み取り、「聴いてもらっているなあ」と思える聴き方が出来ているか。これが、チームの心理的安全性にも繋がる。

 人の話を聞いているときに、こう思ってしまう人が大半だ。「この話の次に何を言おうかなあ。」、「どうやって自分の意見を言おうかなあ。」このようなことを考えているだけで、「聴く」ことはできていない。これは、相手の会話をコントロールしようとする心の表れだ。その人の思いよりも、自分を優先しようとしてる。

 自分のことはどうでも良く、相手のことを尊重できるか。その姿勢や態度が行動として表せているのか。それが「聴くこと」の入り口だという。

 自殺防止センターの西原由紀子さんは、自殺をしようとしている人の話を、電話で聞くことが多い。

「自分を安心させるような質問はしません。言葉は生きていて、それを投げかけられると聞いている自分の内面にも色々な感じが生まれます。その感じを受け入れて、消化して、言語化する作業を、出来るだけ丁寧にするんです。」と語る。

 自殺しようとする人の前で、否定はしない。自分の考えを挟もうとしない。まずは、相手を認める。相手の発した言葉を受け入れることに力を注ぐ。例え、それが自殺をほのめかしている考えでも。その人が、思ったことを「尊重されている」と感じたときに、人の心は開かれる。だから、西原さんは「聴く」ことだけをする。

 「LISTEN」に登場するナオミ氏も、このように語る。「『なぜ』という質問はしない。『なぜ』は、人を身構えさせるから。自分を正当化しなければいけないと感じるから」

 このように考えると質問自体も、こちらの都合でコントロールしていこうという表れに感じる。

 学校の授業での情景が思い浮かんだ。授業では、大きな問いから始まることが多い。ではその問いは、子ども達をコントロールしていこうという表れなのか。ノートに自分の考えを書き、それを教師が見回り、発言してほしい子の意見を数人取り上げる。このような状況下で、心理的安全は保たれるのか。

 学びの理想は、子ども達が考えたいから、考える。自然と考えてしまう環境が望ましい。それが、生活の中で生まれるのが妥当だと思う。子どもの実態に寄り添わず、こちらの都合だけで問いや方向付けを行ったとき、子どもたちは「学びのコントローラー」を手に持っていない。また、自分の意見を取り上げられるか、否かの裁量権も教師にあるのだとしたら、子どもたちは自分で学びを深めていこうとは思わないだろう。「発言して高まっていくチーム」の醸成は、とても厳しいものになるのではないか。

 「聴く」は、もっとオープンでないと駄目な気がする。どうしたら、教室にオープンな、そして温かな「聴く文化」が醸成できるのか。授業のカリキュラムや、仕組みから見直していくこと。そこから始まっていく気がする。

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