自分の目から、「子どものせいにしてる」と伝わる

「○○くんが・・・」、「○○さんがこれをしてきて・・・」

あからさまに聞こうとしない自分がいる。そっけなく対応する。強くあれと思ってしまう自分がいる。本当は、どうにかして欲しくて、話をしているのに。

大人が聞かないことを続けると、きっと「この人は聞いてくれない人だ」となるだろう。なぜ、聞きたくないのか。きっと、毎回の積み重ね。成長実感が彼にも担任にも見られないように感じて、嫌気がさしている。

前回にも書いたが、揉め事に対する恐れがある。「どうして、いつも揉めるんだ」と思ってしまう。「○○くんが・・・」となるたびに、自分が行う対応は2つ。「どうしたい?」、「それが嫌なことか頭で考えて」、「もう一度、話してみたら?」全て、成長実感に繋がっているのだろうか。

理想は、お互いにいい関係が紡げているか。関係性が脆弱なところがあるのが自然だ。そこを、補強していく。それも授業等で。人間同士、揉め事が起こるのも自然。そこで、お互いに「上手くやれたね」という実感が欲しい。「自分たちで解決、納得できた!」と思えるかどうかだ。

揉めた際には、システムが必要。感情を振りまくときに、一度そこに乗っかれるシステム。じゃんけんをして、勝った方が話す。これが通用するかどうか、実践していきたいものだが、少し不自然さも感じる。ただ、話を聞き合う、リスペクトを持って納得感を生み出していくためには対話は必須だろう。

「どうしたい?」「それが嫌なことか、考えて」「もう一度話してみたら?」全て、このゴール地点である、リスペクトを持って対話することに繋がっていればいいわけだ。

岩瀬直樹氏が、「自分は大事にされていると実感すること、徹底的に自分で決める体験を積み重ねること、学ぶのが楽しいと実感していること。この3つがあればあとはなんとかなる」が刺さる。

蔑ろにしたとき、目が死んで聞いているとき、「自分は大事にされている」と実感できるのか。まずは、担任がリスペクトを持って、否定せずに、共感から入るのがもっとも実践効果が高いはずだ。それを真似するはずだから。それを、「人にもしてごらん。話してきてごらん。二人で納得してきてごらん。」と語りかけ、その丁寧な積み重ねが段々と担任の手が離れていくはず。そこまで、手をかけていないんだ。

子どものせいにする前に、まずは自分のこと。自分の目や姿勢をもう一度疑え。

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