詐欺にあった人の気持ちは、詐欺にあってみないと分からない

ケータイを眺めていると、ずっと欲しかったアップルウォッチがすごく値引きされているサイトがあった。なんでも、年末の在庫一掃セールだという。とても安かった。HPも、何だか新鮮みがあり魅かれる。

長年欲しかった物なので、思わず喰いついてしまう。会社概要や、返品保障などの項目も記載があり、その場ですぐに購入ページへ。意気揚々と、名前、住所、電話番号、アドレスを打ち込み、購入ボタンを押す。

しばらくすると、メールの方に「購入ありがとうございました」と一通のメールが届く。それまで気にかけなかったが、急に心の中で不安に思う。「本当に、あの値段で買えるのか。ありえなくない?」

急に「やってしまったかもしれない」と絶望の感触が心を苛む。己のあほさに苛立つ。

とにかく落ち着きたいがために、必死で検索をかける。ネット詐欺、手口、URLを順に検索にかける。そして調べれば調べるほど、段々と確信に変わっていく。これは、詐欺だ。

頭の中でよぎるのが、様々なトラブルや心配ごと。「自分の住所が悪用されていたらどうしよう」、「見知らぬ宅配が届くこともあるのでは」、「この個人情報で、料金が発生することってことも・・・」

考えれば考えるほど、深みにはまる。顔がこわばる。視野狭窄に陥る。この感覚は、同じ経験をしたものにしか分からないと、嘆きのループにはまっていく。

時に、人の落ち込んだ話を聞くとき、励ましてくれる、アドバイスをくれようとする者がいる。だが、それは恵まれている状況だから言えることでもある。持っている者だからこその言い易さがある。強者の視点だ。今、弱者の視点に立つことはできない。

人間、人それぞれ。本当に、痛みを分かろうとすることは出来ないかもしれない。痛みを分かち合う、同じ痛みを伴うことも難しい。けれど、その近しい痛みを経験している者ならば、その痛みに少しは寄り添う感情を持つことが出来る。既に体感しているからこそ分かる、その時の思いや感情。それが、共感を生む。そして、それは「一番の理解者」ように感じる。

「私のために、詐欺にあってくれ」とは言わないが、そうやらこの感情を受け止めてくれるものは、同じドツボにはまった者同士でないと難しそうだ。そうなれば、自分がたくさんの失敗という穴に落ちていれば、人から「良き理解者」として見られることもあるだろう。それならば、詐欺に引っかかったのも悪くない。この間抜けな自分を少しは愛せそうだ。

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