軽率に言語化するのは要注意

佐伯夕利子さんの「教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術」に書いてある一文である。

佐伯さんは、スペインで子どもたちにサッカーを教えている。だが、プロサッカー選手を生み出すことが仕事の大きな目標ではない。サッカーをしなくなったとしても、人間として立派に成長できることを目指して、日々実践し続けた記録が著書には記されている。

「選手のあるべき姿」を何度も自問自答していく中で、言語化する必要性が生まれた。例えば、コーチが試合中に、選手に伝えたい動きがあるとする。「もっと走れ」と伝えたが、選手はコーチの思った通りの「走れ」として伝わらず、意思疎通が出来なかった。

もちろん、コーチの言った通りのロボのように動けるのが良い選手、というわけではない。だが、チームの中で、「この状況の中で『走る』ということが、どのような意味を持っているのか。すり合わせていく必要がある」と語っている。

選手にとって、「プレーの最中だとこうするべきだと思った。」があるはず。けれど、コーチからすると「端から見た景色では、別のように映った」と感じた。ちょっとしたずれかもしれないが、各々が感じている違和感、認識をすり合わせない限り、プレーヤーとコーチが流動的かつ、迅速な動きにはならないだろう。

日本は、子どもに答えをすぐに与えすぎているという。だから、考えない、意見を言わない子どもが出来上がる。スペインの子たちとの大きな差はその部分だという。日本の子は、意思表示や自ら考える姿勢が少ない。

学校教育の呪いのようなものだ。担任、先生の言うことを、四角い枠の中に当てはめる。どれだけきれいな四角になれる子が「いい子」となる。自分で考えない子。大人のご機嫌取りが上手くなる子の出来上がりだ。

もっと風通しのよいチームを作りたい。学校生活、授業の中で、子どもたちが主体的に動く、他の人とコラボレーションをする、大人の枠を超えてくることを期待するのならば、手っ取り早い枠に当てはめていてはいけない。

まずは、その子の在りよう、尊厳は尊重されるべきだ。枠は、その子と大人との中で共に作られるはず。さらに対話を重ねて、お互いにとって良い場を生み出す関係を築く。生み出したくなる、という感覚の方が適切かもしれない。その先に、「風通しの良いチームが生まれる」という結果がついてくる。

言語は、我々の関係を繋ぐ橋渡し。けれど、その言葉を丁寧にすり合わせなければ、違和感とずれを生じたまま、関係が構築され、橋はかからない。他方が諦めてしまう。「この人には、何を言ってもだめだろうな。」関係は途切れる。共通言語を作り出していく作業を地道に繰り返していくことが、より良い場を生み出していくと信じている。

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