違和感を掘り下げる

学校には校長先生のお話がある。どんなイメージがあるだろうか。正直、退屈感があった。耐え忍ぶ時間。そんなイメージの人が多いのではないか。私も同じだ。

子どもたちは、面白い話なら聞く。そのことが顕著になる瞬間があった。

通常通りの始まり方には、見向きもしない。手をいじってしまう。私の中では、「注意しようかな」と考える。しかし、すぐコントロールしようとするんじゃなく、まずは待つ。そうして待った。

しばらくすると、クイズが始まった。一気にその子は顔を上げ、参加する。

私の違和感はそこにある。話を聞かせたい、と思うその心はどこから来るのか。

周りの人の忖度になっていないか。また、自分のためになってないか。

コルトハーヘンの教師教育学には、本質的側面を具体化するために、9つの側面を見ることを推奨している。

一つは、違和感に対する内容。上記したもの。

次は、私は何をしたかったのか。彼を注意したかった。

私は何をしたのか。注意しなかった。待った。

私は何を考えたのか。彼が手をいじっていることの悪い影響。教育的観点。

私は何を感じたのか。イライラした。直したくなった。

逆に子どもの側面からも見る。

子どもは何をしたかったのか。手をいじっていたいのか。はたまた、まだ遊んでいたいのか。

子どもは、何をしたのか。手をいじってた。顔を下に向けていた。

子どもは、何を考えたのか。定かでない。聞いてみよう。ただ、想像するに、つまらないなぁー。終わらないかなーではないか。

子どもは、何を感じたのか。退屈感。はじまってしまった感。

そこから感じる、私の癖。話を聞かない仕草をしている子を、注意したくなる。聞くことを強いる癖。

ゴールは、その子に聞いて欲しい。聞く良さを、また聞き方を身につけて欲しいということ。

ならば、私が変える行動、試みは

待つ、話を聞くに絞ること。相手を変えようと、指示しない。これによって癖が脱却できるかもしれない。

日々、修養だ。

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