2年間通して感じるのは、やはり「作家の時間を通して、何が育まれたのか」
昨日、学級経営コミュニティと作家コミュニティでのオンラインチューニングがあった。そこで自分から語られる言葉は、「残念な点があった。」
こちらで、「できてない子」と区分してしまっている。作家が書けない、出来ないと見ていることになる。
昨日の参加者の中で、「書けない、書きたくない子にはどうすれば」という意見交流がなされた。その中で
「中で書けない子はいないと思っていて、書く方法が分からない子もいない。まして、書きたくない欲がゼロの子もいないはずだ」という意見が刺さった。
子どもは生まれながらに変わりたいと思っている。変わり続けようとしている。そして、それは書くことも同じで、生み出し続けようとしている。けど、何かしらの負の経験の積み重ねで、それが障害になっている。「自分の尊厳が傷つけられる」経験をしてきたのか、はたまた「自分で自信を無くしてきた」経験を積み重ねてきたのか。
さらに上位の考えとして、「本づくりのために書くことを上達させたいという欲が必然的にあるはず」にも言及したい。本当に、書きたいと思っているんだろうか。
書き方が分からないと、書けないんじゃないか。いや、クラス内のエネルギー溢れる子を見れば、素直に書き続けている様子がある。8分間、ずっと鉛筆を動かし続けている。
テーマが変われば、口火を切ったように書き始める子。詩の授業では、はじめは思いつかなかったが、ふらふらして、あーでもないこーでもないと話しかけに来て、こちらがこんなのは?と熱量高く伝えると、そこに乗っかってきたり。自信なさげに、こんなことがあったんだけど、と話にくる子に「それ面白いね」とエンパワーしていくと、最後まで書き切ってみたり。
どこかしら、子ども達の「正の書きたいエネルギー」みたいなものを感じる。ただ、それは人によってタイミングと回数が違うように感じる。すぐに取り掛かれる子もいれば、悩む時間を要する子もいる。ふらふらと回ってみたり、消しゴムをつんつんしてみたり、「わからない」と突っ伏して悩まし気にする時間がある子もいる。ただ、それらの子も、こちらが何かを強引に与えようと、加えようとしなければ、自然な形で何かをはじめる。きっかけを見出そうとする。これ見よがしに、こちらへ話しかけにくる。「ちょっと来て」と呼んで、こんなのどうかなと提案してくる。
ここで熟慮したいのは、「書かなきゃいけない環境と書いてもいい環境」の違い。書かなきゃいけないとなっている場合は、正の積み重ねがあるんだろうか。一概に白黒はつけられないが、枠組みが決まることで、評価も一方向になる。できる、できないで判別されることは、負の積み重ねに繋がる。それは、彼らの「書きたい欲」を余計に削り取ってしまっている。
だが、絵本の「てん」のように「どんなことも書いていいんだよ。あなたの生み出した、たった一つの『てん』も才能あふれる作品だ」と、こちらが大きな枠組みをもって、作品や価値として取り上げることで、子どもたちは「書くことへの正のループ」がはじまっていく予感がする。
それは、書くことの壁を取り払う、打ち壊すことへ繋がるはず。だんだんと、書くことへの躊躇が減り、タイミングを掴めるようになり、思い悩む時間も、周りに気を使うことも減っていくのではないか。
しかし、それも差を感じさせない配慮が必要。市川力さんが、「学期初めに、必ずフィールドウォークからはじめて、どんな子の感じ方も全面で面白がれる雰囲気を作る」と言っていた。
まさに、小さいところからはじめていく。正解がない、評価がないところからスモールステップではじめて、風土を醸成する。クリエイティブに対する気構え、心構えだ。そしてそれを全体で伸ばし合う、面白がることのメリット、体験を実感として捉える。
そこからはじまる「作家の時間」ってきっと、温かい学級の根幹になるだろう。高学年だと、自分をさらけ出せない、内にこもりたくなる傾向が確かにある。ただ、それは目指すゴールが小さく見える、思えるからワクワク感がない。「作家の時間?めんどくさい!」となるのは、その子のゴール設定が見誤っている気がする。もっと壮大な、その子を刺激する何かが設定されれば、自ずとその子は作り手に変化するはずだ。
これはきっと、どの教科にも転用できることだと思っている。国語ならば、詩や作家、読書家になる。自分が生み出す面白さ。そのマインドが根幹にあって、「もっと技術的に高めたい」と思う憧れへと変わっていく。そのマインドがなければ、技術を押し付けても仕方がない。
算数ならば、自分なりの解き方、証明ができるか。問題が作れるか。いつもぼーっといている子が、問題作りになると目の色を変えて自作し続ける様子がある。人によって、解き方に違いがあるところも面白がれるはず。自力解決できる面白さ、そしてその多様さに着目するマインドがあれば、算数にも一律の答ばかりを求めることなく、アート志向が育まれそうな予感がする。
理科は、実験と観察を通して研究レポートやプロジェクトが生まれそう。科学者の時間として、自分の不思議をより高める、問いを生み出す時間。
社会は、世界とつながるいい機会。教科で扱ったものを社会に転用して大きなプロジェクトを実行できるはず。
全ての学習において、作り手になれるはずだ。そして、それが学びの未来を形成する。
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