担任が不在のときこそ、本物か問われる

同居人の妻が発熱。よって、本日は欠勤。

クラスを空けることへの不安感は、以前ほどない。唯一気がかりなのは、揉め事がないかどうか。これも、自分たちで対処できるようになっておくと、ノンストレスに近いんだろうか。

現状、そこまで出来上がってないのと、メンタルが仕上がってないのもあり、一抹の不安はある。けれど、口を酸っぱくして言い続けた「先生がいないときこそチャンス」これが問われる。

そもそも、クラスは誰のものかと言われれば、子どもたちのもの。担任が、「静かに」「こうしなさい」と指示を出してばかりではどうにもならない。強く、「監視したい」「コントロールしたい」と待てないスタンスがもはや病的だ。

担任不在の時だからこそ、期待したいことは「いつも以上のパフォーマンスを見せること。」それは、試合の時みたいな感じ。「先生がいないから、自分たちが引っ張るんだ」「自分で考えて実行しよう」と意識づいてくれると、こちらとしてもうれしい。成熟している集団のように感じる。

そのためには、日常から手放す作業を盛り込んでいるかどうかだ。昨日で言えば、教員が前に立っていないが、挨拶をして、始められるか。「静寂さ」には欠けたが、及第点。

その後に、「自分たちって力がある」「やれるんだ」と価値づけていければ、それが心地よくなると、自分たちの集団としての誇りが生まれてくるはず。これを意識してやりきりたいもの。

他には、手放す見通しがあるかどうかだ。

掃除のときには、私がまったく手を貸さない。それでもやり抜けるか。授業の時には、一言も声をかけずに始められるか。そして静寂のまま進められるか。ペアトークの際には、お互いのリスペクトを踏まえた上で、自分の学習に戻ってこられるか。「戻りましょう」などという言葉を削ることが出来るのか。私が「教科書何ページ」などと言わなくても自分たちで考えて実行できるのか。スタートダッシュの準備をはじめられるのか。何度も繰り返す。当たり前のことを当たり前に。凡事徹底。

それが日常的に、段階的なステップを踏んで、楽しく歩めるか。そんなマネージメント力も大いに伸びしろがある。

一度、自分の理想を洗い出し、そこに到達するためのステップを、鮮明に描かなければ理想へは辿り着けないだろう。

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