「学校って何だろう。」そう感じた瞬間が多々ある。日本と海外を比べると、その「学校観」なるものが大きく違って見える。全員が同じ勉強をしていない。先生はあまりしゃべらない。机の向きは全員ばらばら。座っていない子もいる。それでも、そこに学びがあり、自由を感じる。放任的な無秩序な雰囲気はなく、子どもたちは確かに学び進めている。自分の学びに、責任を持っているとでも言おうか。それが海外の学校。全体的にそうではないのかもしれないが、教室にこのような光景があることは確かだ。
一方、日本では、どうだろう。同じ向きの机で、同じ教科書の部分を進める。先生が多くしゃべる。全員が同じ行動をするように学校生活が組まれている。黒板の文字をノートにとることが勉強になり、「先生、これやっていいんですか」と聞かなければノートを書き進めることができない。自分の学びにオーナーシップはなく、言われたことをやるだけのマシーンが好ましいとされる現状。
一体、どっちが学校として在りたい環境なのだ。
自分が学校の現場に立っていると、そのように自問自答する機会が本当に多い。これは、海外の学校を知っているから比べてしまうのか。実際に海外の学校を訪問したわけではないが、日本でも同じようなオルタナティブスクールを見て感じると、日本の教育観の狭さが目立ってしょうがない。
だから、悲観して終わるわけにはいかない。何か、自分にできることがあるはずだ。そこを素通りできない思いがある。社会の課題と自分の課題が交じりあうところに、自分の仕事がある。それが、自分の他の人には任せたくない仕事なはずだ。悶々と疑問を抱くことは、疑うことは誰にでもできる。どうやってその問題点に風穴を開けられるかだ。
確かに、日本の学校には軍隊教育の名残を感じる部分がある。大人が中心にいて、コントロールしやすいようにシステム化されている部分もある。これはこれで、型を覚えてもらうということに関して良くできたシステムだ。基礎基本、規律やしつけといった部分を、集団で生活していく上で必要だから、まずは一律に習得させる。そうやって、日本のモラルやマナーが守られてきたはずだ。あいさつ、掃除といった、規範意識の高さは世界でもトップクラスだと言える。
しかし、学校の場はそのようなモラルやマナーを学ぶためだけのものではない。同じ年代の子たちが同じ場に集まって、「自由になるために」来ているはずだ。人間的な成長を高め合うためでもある。自分の人生の幅を広げるため。全員が同じようなことをして、競い合っている文化はいらない。
学校の現場で出来ることは何なのか。今後も模索していく。そして自分で実行してみないことには、その文化に変化は訪れないだろう。
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