関西に出張となった。行き先はT小学校。ICTを積極的に取り組み始めて、もう数年が経とうとしている。そこで、1番感じたのはICTの実践のレベルの高さではなく、学校全体の雰囲気だった。
オープンな学校というのか。外部の人間にも、「何でも見てください」という姿勢が内側から滲み出ている。教室の看板には、実践している教科と単元名が。ちょっとした部分にも、学校の誇りを感じた。
指導主事の先生の語る口調は、温かみと情熱がある。授業を行う教員の目も生き生きとしている。この明るい、朗らかな文化。雰囲気。どうしたらこれが作り出されるんだろう。
「自分達から、それを出していく必要がある」と指導主事の先生は語る。「それ」とは、プラスの空気感。チャレンジすることに、「いいね」と言える文化。トラブルに対しても明るく捉える、トライアンドエラーの風土。それは、誰かが発していかないと根付かない。
ICT云々の前に、そのような教職員集団が確立されているのか。その文化があれば、ICTに限らず学校改革は加速する。もちろん業務の切迫具合、余剰時間の少なさは否めない。これらは、マイナスの空気を呼びこむ。だからこそ、意識してプラスの空気を生み出す源が必要。
さらに、保護者や同僚のエンパワーも必要だろう。失敗しても、大丈夫な安心感があるから挑戦できる。弱い部分を晒していいのは、キリスト教育の基盤になる。弱き部分に寄り添う。不完全なものを愛する。「神のなさることは、時にかなって全て美しい」その不遇に思える出会いは、必然ということだ。
5年生の教室を空けることに、はじめは自信があった。うまく回るだろうという謎の自信。ところが、実際のところはトラブル頻発。ケンカ、揉め事。こちらの心臓が掴まれるような思いがする。ざわざわする感情。結果に落胆する自分。まだまだ自分は、「学級のことを手放せていない。コントロールしていたい欲が根幹にある。」そのことにもガックリくる。
起こってしまうことに、目がいく。それは、職場の環境もあるだろう。「何かが起きれば、担任のせい」そうやって、どんどん自分が追い込まれていく気がする。呼吸が浅くなる。全てを放り出したくなる。けど、それは子供たちも同じなのではないか。むしろ、その不安な思いは強いかもしれない。自分にできることは少なく、力がない存在だと感じている子には、失敗や上手くいかないことは心底恐い。何より、それを咎めたり、足を引っ張る存在がいればより縮こまる心理状態になる。
今回、自分が強制的に手放した時間と場所。それは、自分が手にしていたと思い込んでいるもの。これは、コントロールできない部分に違いない。影響は与えられる。だけど、絶対的な主権者ではない。どんなに管理したって、揉め事は起こるし、思い通りにいくはずがない。大切なのは、こちらの想定外が起こってからの持ち直し方。レジリエンス。今回のことを、生かそうとする人間かどうかだ。
必ず生かそうと思わなくていい。でも、底を知っている人間は強い。その度に、確認していけばいい。
この教室は、失敗を咎めない。ナイストライと言える場。明るく応援する人がいる。それを強く言い続けるのが、自分の最大の役割だ。「自分達って、力がある。信頼できる、されている。」その関わり合いこそ、学校で体感する最大の学びだと思う。まずは、自分が体現していく。誇大に見せず、驕らずに。
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